ギフテッドは天才なのか?

そもそも天才って何なんでしょうね。みんなが”できない”ことを”できる”人のこと?小1で物理ができるとか?じゃ、みんなはできるのに、物理を操る天才にできないことがあるとしたら?それが靴をそろえるとか、脱いだ服を片づけるとか、歯磨きをするとか、友達と仲良く遊ぶとか、”当たり前のこと”だったとしたら。年齢に見合わないすごいことができて、いわゆる普通のことができないギフテッド。アンバランスさにいつまでたっても私は慣れることができません。

メディアでクローズアップされるのは、知能が高いとか芸術に秀でてるとか、そういう凸な部分。その陰にある苦悩はあまり表に出てきません。さらに、ギフテッドはみんな成果を出せているわけではありません。出せていない方が多いかもしれません。娘は成果を出している部類に入るとは思いますが、これはたまたま検定やコンクールが好きなタイプで、そういうものに積極的に参加しているだけのことです。

ギフテッドは決して努力をしていないわけではありません。娘の場合、私には努力に見えていますが、本人はそれを努力として感じていません。おそらく多くの人は、努力=好きではないことを諦めずに続けること(勉強とか)、だと思っています。ギフテッドは好きではないことは全くしません。シャットアウトです。ですから、好きなことばかりやっているので、努力もなく結果がついてくるように見えてしまいます。ただ、習得にかかる時間は非常に短くてすみます。そこはもって生まれた物で、ギフテッドの特徴です。ただ、ここでうらやましいとばかり思っていられないのが、興味のないことは拒絶レベルだということです。無理にやらせようものなら暴れることもあります。なので、オールマイティにこなせる秀才型、もしくは凸凹のないIQ120~130(sd15)くらいのギフテッドが世の中では成功しやすい気がしています。受験に関してもです。(個人的な考えです)

ギフテッドは一般の人が考える枠におさまってくれません。学校という枠にもおさまってくれません。思考の方法が違いすぎるんです。娘が「先生が”子供はこうあるべきだ”っていう枠に自分をおさめようとするのが嫌だ」と言っていたのが、このことだと思います。この問題はこういう考え方で解いてほしいと先生は思っている、けれど自分のやり方はこうで、自分の方が合理的だと思っている。考え方まで決められるのはおかしい。先生はここまで子供たちが到達してくれたらいいと思っている、けれどどこに到達したいか決めるのは先生ではない、自分だと。一般的な小学生の思考じゃないです。けれど、先生はギフテッドの子がどんなことを考えているのかわからない。まさかそんなことを感じているなんて予想もしていないと思います。

娘は検定もたくさんとっているし、とても賢そうに思われるのですが、模試の偏差値はえっ!?っていうびっくりな数値をとってきます。「この理科の分野、興味ないからやめた。」とか。なので、興味のふり幅が大きい科目の偏差値は、同じ教科なのに、30~70と幅があります。おもしろいです。偏差値30ってほぼ0点に近いです。これで中学受験をするというんですから、ある意味ツワモノです。安定した偏差値をとってくるのは算数と国語だけです。なので、偏差値教育で育った私には、娘が天才には全く見えないし、秀才にもあんまり見えない・・・。偏差値だけで見れば、子供の頃の私の方が高いですから。30なんてとったことないです。けれど、私は小学生で数学なんてできなかったし、ピアノもこんなに弾けなかった。高校の範囲の理科に興味を持つこともなかったし、本も好きだったけど、娘みたいに読み漁ることもなかった。

何がいいとか悪いとかはなくて、個性っていう一言で片づけられてしまうんでしょうけど、日本の教育制度に適応しやすいのは私のようなタイプです。学校や塾のレールにうまく乗れるタイプ。つまらない授業も、適当にさぼってのらりくらり過ごせる。自分のやりたいことがまぁまぁあって、でもそれを今絶対にしないとダメ!みたいにはならなくて、後回しにできる。嫌なこともだいたいこんなもんでいっか、とやり遂げることができる。娘はそういう私のようにはいきません。「これ面白そう!」となったらイノシシのようにどっか行ってしまいます。つまらない環境下におかれると、どんどんゾンビみたいになっていきます。

先日、五味太郎さんの娘さんも学校に行かなかったことを知って、なんだかすごく嬉しかったんです。著名人のお子さんが不登校って、勇気をもらえます。この気持ちはなんでしょうね。決していい名前のつく気持ちではないような気がします。黒い気持ちなのかなぁ。

 

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