不登校、その日は突然に

不登校のはじまり

学校に行けなくなったその日、なぜ学校に行くことができないのか、本人を含め誰にもわかりませんでした。学校まであとこの横断歩道を渡って50mほど進むだけ。けれど、目の前の横断歩道が渡れない…。

まさか自分の子が不登校になるなんて!?とは実は思ってなくて、小5くらいから不登校になるかもしれないという予感はありました。それより少し早く不登校になってしまいましたが。

小さい頃から「自分」を持っていて、知的欲求が強く、またこだわりも強くて育てにくい子でした。育児書が参考にならず、調べに調べて行き着いた先が「ギフテッド 」でした。HSCはその後しばらくして知りました。主な情報源はネットから。当時はまだ、メディアに取り上げられることもなく、海外からの情報ばかりでした。ただ、私が教育熱心だったことが幸いして、幼児教育をせっせとやっていたことで、娘の知的欲求は自然と満たされていました。モンテッソーリの教具を自作したり、とても楽しんでやっていました。教育は今でも大好きです。

海外からの情報を参考に、ギフテッド児向けの育児方法に方向転換したことで、医療機関にかかることなく、なんとなく療育の真似事をしながらまぁまぁ平和に過ごしていました。精神年齢がまわりと2才ほど違うので、どうしても浮いてしまうんです。それをロールプレイングをしながら、どうすれば相手に嫌な気持ちをさせないか、を一緒に考えるようにしていました。これはとても効果がありました。ちょっと茶目っ気を加えつつ、笑いありのロールプレイングがおすすめです。また、冗談が通じないので、冗談だと理解する練習もたくさんしました。「今からママは冗談しか言いません!」と宣言し、ひたすら冗談ばかり言うんです。1年くらい続けた気がします。今では、私のボケに突っ込むことができるくらいになりました。そうやって、療育の真似事を続けていましたが、小2のときの出来事がきっかけで、私は区の教育センターにヘルプを出しました。自分で思うよりも、理解されない育児への孤独感や、先の見えなさに心がズタズタになっていました。

不登校の予兆は、後々考えるとなかったわけではありません。けれど、登校渋りがあったわけではなく、学校そのものが嫌と思わせるようなものはありませんでした。ただ、母親に対する依存度があがっているのは確かでした。けれど、それが不登校とは結びつきませんでした。「小5くらいで不登校になりそう」と思ってはいたけれど、それは高学年女子によくある「自分たちと違うものは排除する」ようなことがきっかけで学校生活が嫌になり、不登校に発展するだろうと考えていました。なので、今このタイミングで!?という感じでした。

娘は特定の友達がおらず、どのグループともいい距離感を保っていたようです。(話が合う子がそもそもいなかったらしい)。嫌なことをされても言い返すこともでき、先生に相談することもできていました。小さないじめくらいはあったかもしれませんが、問題になるようなトラブルに巻き込まれることはありませんでした。勉強面も全く問題はなく、いわゆる勉強も運動もできる子のポジションにいたようです。なので、先生たちも娘の不登校には目から鱗で、最初は一時的なもので深刻化しないだろうと思っていたそうです。けれど、娘はいつも「自分は理解されない」と感じながら学校生活を送っていたのだと思います。

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